今日は1月17日、29年前に阪神淡路大震災が起きたのは早朝のことでした。
私はそのときまだ二十代、最初の仕事を辞めて実家へ戻り、両親と妹と四人で尼崎のマンションに住んでいました。
ドーンと大きな上下の揺れの後に激しい横揺れ、飛び起きてとっさに壁際に張りつきました。
何が起こっているかわからないレベルの揺れに「ああ、この尼崎がこんなにも揺れているからには、首都は壊滅したに違いない」ということが頭をよぎりました。
あとで聞くと妹も全く同じことを考えていたようで、いかに昭和時代の我々に小松左京の「日本沈没」が強烈に染み付いていたかがわかります。
幸い私たちのマンションの建物被害はひび割れだけで補修で住めるレベル、電気ガスはほどなく、断水も数日で復旧しました。
とはいえ、断水時には給水車に水をもらって運ぶのにエレベーターが動いていませんでしたから、重い水を階段で運ぶのはとても苦労しました。
このときの体験で、マンション住まいは4、5階までが限界だ、と思うようになりました。タワマンの上層階はどうやって水を運ぶのでしょうか。
家の中も倒れた家具や飛び散って割れた食器類を片付ける程度ですみました。
自転車で10分ほどの距離にある母方の祖父母の古い長屋は、倒壊は免れたものの建物全体が前側に傾き、行政からは「半壊」との判定で住み続けることは厳しくなりました。
応急的にひび割れにセメントを塗って屋根に上ってブルーシートをかけたりして急場をしのぎましたが、仕方なく祖父母の長屋は取り壊し、我が家のマンションを売った資金で三世代同居の家を建てることになりました。
とはいえ、どこの家も被害にあって建築資材も大工さんも不足していました。
なので基礎工事の着手から家が出来上がるまで相当長い時間がかかり、マンションは先に引き渡さなければならなかったのでその間は不自由な仮住まいが続き、完成を待ちきれず祖父は亡くなりました。
来てくれる大工さんは棟上げのとき以外はずっとひとりでした。このとき、家ってひとりで立てることができるのか、ととても驚いたものです。
今、能登半島の地震でこれから予想される仮設住宅や街の復興のための資材や人手の不足について、大阪万博を延期または中止して能登に注力すべきという声があります。
阪神淡路大震災のときの我が家の小さな家ですらなかなか着手してもらえなかったことからも、それは尤もな意見だと思います。
なぜ未だに正式に議論の俎上に乗らないのかと、私には不思議でなりません。