なこのすけらいふ

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おばあちゃんのリュックサック

父方の祖父母の家は山陰地方の山あいの小さな集落にありました。

「ありました」といったのは、そこはもう売ってしまって他人の家になっているからです。今は都会から移住した子沢山の若いご夫婦が住んでいます。

地方の古い家は住む人がなく空き家となる場合が多い昨今に、気に入って住んでくれる人がいたということは幸運でした。

その家は集落の中でも他の家々から少し離れた山の中腹にポツンと建っています。

母屋の前の井戸の横と、前庭の石垣の下とには田畑が広がっており、表座敷の縁側からは、ただ正面に位置する山並みが見えるだけの場所でした。

風が吹くと、木々のざざぁ、ざざぁというざわめきが聞こえるだけで、人の気配というものはほとんどないロケーションです。

そんな田舎の古い家に、私たち家族は毎年お盆休みになると父の運転する車で帰省したものでした。

小学校の長い夏休みなどは、ときには私たち子どもたちだけで一週間ほど滞在したりすることもあって、昼間は虫取りをしたり近所の溜池や神社に遊びに行ったり、奥の間に座卓を出してきて夏休みの宿題をしたりして過ごしていました。

その頃にはもう、祖父は脳卒中で亡くなっていて、広い家には祖母がひとりで住んでいました。

ある夏休みの午後、祖母は座敷の大きな押し入れの中から古いボロボロのリュックサックを出してきて私たち姉妹に見せて言いました。

「見てみい。こりゃあ何か分かるか?」

リュックサックは大きさの異なるベージュ色のものが3つあったように思います。所々破けて茶色い染みのような跡がありました。

「こりゃあおばあちゃんが帯の裏地をほどいて草で染めて縫ったリュックサックなんよ」

祖母は昔の多くの人々がそうであったように、お見合い写真一枚で、当時日本領であった台湾総督府日清戦争終結後、その講和条約である下関条約に基づき清から割譲された台湾を統治するために設置された日本の出先官庁)に勤める祖父に嫁ぎました。

 

台湾で3人目の息子を生んで間もなく敗戦となり、仕事の残っていた祖父を残して、ひとりで子供達を連れて故郷へ引き揚げることになったということです。

 

台湾では比較的現地の人々とは友好的であったとはいえ危険が全くないとはいえなかったようで、3人の子どもたちと台北から基隆(キールン)の港へ無事に辿り着けるように自分らのリュックサックにそれぞれの名前を縫い付けて、保護色になるように草の汁で染めて縫ったというのでした。

「こんなものを後生大事に捨てられずにいるのは、可笑しかろう?」
と祖母は言いました。

そんな祖母も90歳を越えた頃から独り暮らしもじきに困難となり始め、とうとう田舎の家は処分して町に暮らす私たち一家との同居生活となりました。

そして最後は施設で、満100歳の誕生日を迎える3日前に、静かに目を閉じました。

最期に発したことばは「もう駄目じゃ」でした。